ルーブル合意 2
3月下旬から2週間で、150億ドルにのぼるドル買い介入を各国が必死に実施したにもかかわらず、ドル安は1ドル=220円台まで進んでいました。
市場のドル不信感が自己増殖を繰り返し、さながらアリ地獄のように歯止めが掛かりにくくなっていきました。
87年4月のワシントンG5・G7では、ドル暴落懸念で各国が一致。
当局者の緊張は高まり、ドル・サポート発言が相次いでいます。
米国が金利を高めに誘導し、日本が低めに誘導し金融政策での協調を強めました。
日本の大蔵省が国内の銀行や生命保険会社などにドル売り自粛を指示し、なりふり構わずドル安をとめようとしたのもこのころです。
その後、ベネチア・サミット(87年6月)を経て、小康を保っていたドル相場でしたが、各国のインフレ懸念が次第に高まり、金融引き締めの動きから不協和音が広がり始めました。
べーカー長官の西独批判が政策協調の破綻の連想を生み、87年10月のブラックマンデーにつながったのです。